ない

番号:68

名前:ない

読み:ない

ないという概念テッテレー。ないということは存在の不在によってしか表すことができない。


非存在を示すことはできない。

つまり「ない」ものが「ある」と示すことはできない。

 

例えば「パンダがいる」絵を描くことはできるが、「パンダがいない」絵を描くことはできない。

 

 

あるいは何もない絵を描けば、それが「パンダのいない絵」だと思うかもしれない。

 

 

しかし、それでは不十分である。

なぜなら、その絵は「パンダがいない絵」であると同時に「ドラゴンがいない絵」でもあり、「クラムボンがいない絵」でもあるといった具合に、他のあらゆるものがない絵として理解されうるからである。

 

ならばどうすれば「ない」ことを示すことができるのか。

考えられる方法は「パンダがいる絵」のあとに「パンダがいない絵」を見せるという手法である。

 

 

かくして非存在は存在の欠如としてしか表すことができない。

 

ないがあるのではなく、あるがないのだ

 

非存在を理解するためには、存在を理解できなければならない。

つまり「パンダがいない」ことを語るためには「パンダがいる」ことが理解できている必要がある。

その「パンダがいる」ことの欠如として「パンダがいない」ことが理解される。

 

「クラムボンがいる」ことを理解できない人にとって「クラムボンがいない」ことは意味をなさない。

 

 

同じく、ある人物の非存在はその存在の欠如として表される。

つまり「いまここに太郎君がいない状態」というのは、「 [いまここに太郎君がいる状態] ではない」ということによってのみ表される。

 

 

「太郎君がいない」ことを示すためには「太郎君がいる」ことが証明できなければならない。

 

ここでもし、その人が死んでしまった場合はどうなるのであろうか。

「太郎君がこの世にいない状態」は、もちろん「 [太郎君がこの世にいる状態] ではない」ということで表されるが、「太郎君がこの世にいる状態」は、当人がこの世にいない以上示すことができない。

 

 

すなわち「クラムボンがいない絵」しかない世界であり、それでは非存在を示すことはできないのは先に見たとおりである。

 

つまり、死んだ人は存在も非存在も示すことができない。

死んでしまっているので存在を示すこともできず、存在が示せないので「存在の欠如」としての非存在も示すことができない。

 

死んだ太郎君の存在感は、クラムボンの存在感と同じレベルになる。

かくして、実在人物は死後フィクションと同じ扱いになる。

 

 

よって、死後は二次元に行ける。

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