非存在を示すことはできない。
つまり「ない」ものが「ある」と示すことはできない。
例えば「パンダがいる」絵を描くことはできるが、「パンダがいない」絵を描くことはできない。

あるいは何もない絵を描けば、それが「パンダのいない絵」だと思うかもしれない。

しかし、それでは不十分である。
なぜなら、その絵は「パンダがいない絵」であると同時に「ドラゴンがいない絵」でもあり、「クラムボンがいない絵」でもあるといった具合に、他のあらゆるものがない絵として理解されうるからである。
ならばどうすれば「ない」ことを示すことができるのか。
考えられる方法は「パンダがいる絵」のあとに「パンダがいない絵」を見せるという手法である。

かくして非存在は存在の欠如としてしか表すことができない。
ないがあるのではなく、あるがないのだ
非存在を理解するためには、存在を理解できなければならない。
つまり「パンダがいない」ことを語るためには「パンダがいる」ことが理解できている必要がある。
その「パンダがいる」ことの欠如として「パンダがいない」ことが理解される。
「クラムボンがいる」ことを理解できない人にとって「クラムボンがいない」ことは意味をなさない。

同じく、ある人物の非存在はその存在の欠如として表される。
つまり「いまここに太郎君がいない状態」というのは、「 [いまここに太郎君がいる状態] ではない」ということによってのみ表される。

「太郎君がいない」ことを示すためには「太郎君がいる」ことが証明できなければならない。
ここでもし、その人が死んでしまった場合はどうなるのであろうか。
「太郎君がこの世にいない状態」は、もちろん「 [太郎君がこの世にいる状態] ではない」ということで表されるが、「太郎君がこの世にいる状態」は、当人がこの世にいない以上示すことができない。

すなわち「クラムボンがいない絵」しかない世界であり、それでは非存在を示すことはできないのは先に見たとおりである。
つまり、死んだ人は存在も非存在も示すことができない。
死んでしまっているので存在を示すこともできず、存在が示せないので「存在の欠如」としての非存在も示すことができない。
死んだ太郎君の存在感は、クラムボンの存在感と同じレベルになる。
かくして、実在人物は死後フィクションと同じ扱いになる。
よって、死後は二次元に行ける。